Jovis die 16 mensis Januarii 2025

ACROAMATA LATINA

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t. miura

Recitationes latinae



Recitation (Aenēis 2.438-452) and Slides_両詩人共通の「善」:神々は去り「敵勢」や「疫病」が襲来した都にてOptimusな者は死を押して同胞を救おうとし落命する

《和訳と訳注等》 〈和訳〉 【2.438 こちらでは、誠に大規模で苛烈な戦闘を、(つまり、ここと比べれば、)あたかも他にはどこにも、】 【2.439* (我らのあの悲惨も含めて、)戦闘などなかった、城市中で誰も死んでなどいなかったかのよう、】 【2.440* そう錯覚させるほどに、狂乱を解き放った軍神マルスと(それに煽られる)ギリシア勢が(王の)館に襲いかかるのを目の当たりにする。】 【2.441 つまり、彼らは亀甲戦術を用いて櫓門(に至りそこに足場)を占めた。】 【2.442 防壁に梯子が張り付く。まさに櫓門の両側の側柱際の壁を下から上へ、一人の下からまた一人と続き、】 【2.443* 彼らは一段また一段とよじ登っていく。投下物には左手の丸盾で】 【2.444 対抗し身を守る。(遂には)右手で(櫓門の)胸壁を繰り返しつかもうとする。】 【2.445* これに対抗して、ダルダヌスの(血筋と繁栄や名声を誇りとしてきた)トロイア人は、櫓を、すなわち(守備隊の)居る最上階の頂をすべからく】 【2.446* (部材部材に)引き壊す。(つまり)彼らが(トロイアとその民族の)終わりを見て取ったとき、これら(部材)によって自分自身(たるトロイア)を、】 【2.447* すでに死の入り口に立たされながらも(逃げようとせず)、(それらを敵の頭上に)投げ捨てて、(死から)遠ざけようと図ったのだ。】 【2.448* 金で出来た梁を、その古よりの(黄金の都の象徴たる)見上げる高さの装飾を、】 【2.449* (今や単なる重量物として)転がし落とす。(一方)他の者たちは、剣の鞘を抜きはらって櫓の基底部をなす】 【2.450 門扉(の屋敷内側)に位置を占めた。密集隊形でこれの守備を固める。】 【2.451* (このようなピエタ―スの様に我らは共鳴し)闘志を回復した。(今や手勢はごく僅かだが、我らもこの同胞と運命を共にするべく)王の館へ救援に駆けつけよう、】 【2.452 勇士らを助けて重荷を軽くしよう、(私と同じ)敗北と死を定められた同志らに(加わり)力を添えようと。】 〈訳注等〉 *2.439-440の主韻律は互いに真逆である(DSSDDD対SDDSDS)。両行の戦闘の規模・激烈さの差異を強調するため、一般論ではなく自身が仲間と戦い、その仲間を失った直前の戦いとの比較を示唆した。 ※2.439の「bella fo|rent,」は「bell(a) es|sent,」と言い換え可能。しかし第1脚がDからSに変化し、真逆主韻律対が成立しなくなるために採用されなかったのではないか。 *2.436-451の高頻度な「SDSSDS」出現の意味 (1)「SDSSDS」の一般的含意  「SDS」は、「S(静)→D(動)→S(静)」の推移によって、「安定状態1→活性状態→安定状態2」という1つの「山」を想起させる。6脚の主韻律の前半と後半として「SDS+SDS」となった場合にはこの「山」が2つあることになる。このとき、2つの山の形成が、時間の推移すなわち時間軸による場合と、時間的には同時で空間軸による場合があるだろう。  時間軸による場合には、順次起こる2つの出来事の序・破・急の連鎖を想起させる。例えば全巻序歌の最初の段(1.1-7)の結句である1.7では、下記のようにローマ誕生への出来事としてアルバ・ロンガの生起とそれに続くローマのそれが順次に語られる。  空間軸による場合には、2つのモノ・コト・概念等が同時に並置・対置されている様を想起させる。下記に事例を2つ挙げる。1.163では、海難に遭ったアエネーアース船団がこれから入っていくことになる(1.170-171)、広い波静かな入り江(1.164)の両側にある巨大な岩山(1.162 hinc atque hinc vastae rūpēs)の双子の(1.162 geminī)断崖が天に向けて、そびえる(1.162 minantur)様が描写される。(※ここは、時間軸に沿って険しい水路を進み、最後に停泊地に着いたという順次の2つの出来事とも解釈し得る。)  1.546では「彼アエネーアースをユッピテルの神意が庇護しているなら」と、「彼が(冥界ならぬ)地上の空気を享受しているなら」の2つの条件節が並置されている。(※ここも、時間軸に沿って、まず条件1を満たし、次に条件2を満たせばという順次の2つとも解釈し得る。) (2)2.436-451の高頻度な「SDSSDS」出現  さて、この場面は、プリアムス王の館の攻防戦を語る場面であり、ギリシア勢の攻撃(2.440-444)とそれに対抗するトロイア勢の攻撃(2.445-450)が語られる。そして、それぞれの攻撃は、その順次の行動の連鎖として描写される。したがって、ここでは、時間軸に沿って着々と攻撃の進行する様を「SDSSDS」の主韻律で好適に表現していると考える。  ギリシア勢の攻撃   2.442:防壁に攻城梯子をかける→それで登っていく  2.444:(上る途中に、左手の盾で敵の攻撃を)防ぐ→(梯子を登ったら)右手で胸壁をつかむ  トロイア勢の対抗   2.449:(櫓の上から金の梁を)転がし落とす→(手分けして一部は)地上へ向かう  2.450:地上で櫓門の内側を確保する→守備の密集陣形に戦力を配置する *2.443:2.440と2.443は「SDDSDS」の対をなし、間に2.442「SDSSDS」を挟み込むサンドイッチ構造を取る。一方、2.442と2.444は「SDSSDS」の対をなし、間に2.443「SDDSDS」を挟み込むもう一つのサンドイッチ構造を取る。2つのサンドイッチ構造が互いにかみ合っているように強く連関している。  これら4行には「SDS」の半行が多用され、全体の6/8=75%を占める。これは、「時間軸に沿って着々と攻撃の手順の進行する」ギリシア勢の様と呼応するだろう。そこにおいて、「SDDSDS」が2.440と2.443を繋ぐことによって、2.440の内容を特徴付ける「sīc Mar|t(em) indomi|tum(そのように抑えの外れた軍神マルス)」という戦闘の激しさのニュアンスを2.443に付与することになる。すなわち、2.442-444の防壁を乗り越える攻撃において、その象徴的に激しい戦闘場面がこの3行の中央に位置する2.443ということである。2.443の「頭上からの攻撃を受けつつも攻城梯子を一段また一段と登っていく」場面はまさに象徴的である。 *2.445・448・449:ここにはルクレーティウスとの対話がうかがえる。同詩人がLucr. 2.34-39で、「(病で発熱している)肉体にとって、財宝も高貴な生まれも王(国)の栄光も何ら役に立たない」と述べ、我々が強欲ゆえに心労・労苦を重ねて追及しているそれらの価値を否定し、もって強欲を捨て去り憂いの無い精神の価値を悟るべきとする。このとき、ウェルギリウスの敵の刃が迫り来る肉体の危機は、ルクレーティウスの熱に侵される肉体の危機と同類であり、財宝も高貴な生まれも王(国)の栄光も何ら役に立たないことも同じである。ウェルギリウスは強欲の否定においてルクレーティウスに賛同している。 *2.451:アエネーアースが、この攻防戦に参戦しようと決意する2.451がSDSSDSの同一主韻律で直前の2.449-450に続いて全体で3連続となるのは、攻防戦の順次の進捗の仕上げとして、アエネーアースの参戦が位置付けられることを意味し、彼の心が仲間のピエタ―スに則った反撃に「共鳴」する様を表現していると考える。  さらに、2.451のSDSSDSはアエネーアースが最初に出撃の勇気を燃やした2.316のDSDDDDと真逆である。2.316は集める仲間と共に城塞に馳せ参じること、および死に向けた「狂気と怒り」に駆られることが特徴である。(なお後の12.680で敗戦と死を悟ったトゥルヌスが実質的逃避を止め「狂気のままにさせてくれ」とアエネーアースとの一騎打ちに向かう場面の主韻律は2.316と同じDSDDDDであり、ここに自己の名誉のために「死に向かう狂気と怒り」という共通項がある。)一方、2.451はほとんど手勢なしで、ピエタ―スに駆られることが真逆の特徴となる。戦時の「狂気と怒り」および「ピエタ―ス」は表裏一体のように思えるが、前者は自己の名誉心が根底にあり、また互いの復讐の連鎖でユーノーの罠(トロイア人・ローマ人の抹殺)への道に通じる。対して、後者はユッピテルの道に通じ、遂には1.293-296のように、不敬神とされる「狂気(激怒)」が長い戦争の時代を勝ち進んだローマ人によって戦争の門の内に拘束されて閉ざされるのである。 《重要な含意》 2.447(王館の攻防戦)の多層的含意 第1層(『アエネーイス』内の関係)  2.447の韻律は主・従ともに既出2.364・365と真逆である(2.447:王館の防衛戦、2.364・365:街の惨状)。韻律面のこの最高度の真逆性は、互いの内容はその中核に真逆性を持たせて解釈すべきことを示唆する。すなわち2.447の「生者の、眼前に迫った死を恐れぬピエタ―ス」に対する、2.364・365の「死者が街路(家・神殿の門口)を埋め尽くす惨状の問い掛け『ピエタ―スとは何か』」である。 第2層(ルクレーティウスとの関係)  A. 2.364・365とLucr. 6.1262は同一の主韻律と内容(死者≒死にかけの感染症者)で繋がる。ルクレーティウスは感染症者を(避けることなく=死を恐れず)傍で務め(ピエタ―ス)を果たした者は感染(と労苦[Lucr. 6.1244])で死んだとした[Lucr. 6.1243]。また、最良の者は皆そのようにして死んだとした[同1245]。このLucr. 6.1243は上記A. 2.447の行動主体を説明するA. 2.445・446と同一の主韻律と内容(死に包囲されても逃げずに務めを果たす)で繋がる。また、Lucr. 6.1245と上記A. 2.447の主韻律の間には要素真逆のキアスムスの関係がある(A. 2.447[起]の(最良の)生者は、Lucr. 6.1245[結]の最良の死者となる)。  このような韻律と内容の連関は、ルクレーティウスとウェルギリウスの上位概念での共通点を強調するためであろう。すなわち、①死に包囲されても死を恐れず務め(ピエタ―ス)を果たす者がおり、そのような者こそ最良な者である。しかし②そのような最良な者は(感染症や敵に)襲われて死ぬことになる。➂無差別多量の死者の果てに生き残った人々は「伝統的ピエタ―ス」を失い(Lucr. 6.1271-1274|| 例えばA. 1.94-101, 1.375-385)、やがて「真のピエタ―ス」に向かう(ルクレーティウスにおいては明示はないがそれを期待しての最終第6巻のエピローグであろう|| 例えばA. 6.719-751, 12.435-436)。  なお、「真のピエタ―ス」とは精神のあり様において、ルクレーティウスにとっては原子論に則った神々のあり様を範とすることであり(Lucr. 5.1198-1203)、ウェルギリウスにとっては至高神ユッピテルの精神と同根の人間精神が同神の神意を範とすること(例えばA. 6.719-751)であろう。※ウェルギリウスにおいては、死の恐怖を克服する、仲間への本能的ピエタ―スは同神由来の人間精神に本来的に内在する。これが、原初の人間は孤立した力ずくの生を送ったのであり、ピエタ―スは社会的学習があって初めて原初の人間精神に付加されるとするルクレーティウスとの違いであろう。 以上

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Recitation (Aenēis 2.420-437) and Slides_トロイアがローマに昇華するために厳しい試練を要する徳目は正義や武勇を導くべき「強欲を克服した敬神」か

《和訳と訳注等》 〈和訳〉 【2.420 その上あの者たち、つまり、たとえそれが誰だとしても、目の利かない夜に闇から闇を駆け抜け、】 【2.421 偽装工作で潰走させた者たち、あるいは城市中で追い回した者たちの誰彼までが】 【2.422 現れてくる。最初にその者らが、丸盾と武器での偽装に】 【2.423 気付く。さらにはその響きから言葉の違いも察知する。】 【2.424 我らはなす術もなく数で圧倒される。最初にコロエブスが】 【2.425 ペーネレウスの右腕で、戦いを司る女神の祭壇周りで】 【2.426 倒れ伏す。リーペウスも崩れ落ちる。彼は一人抜きん出ていた。最も正義にのっとり、】 【2.427 そして最も公平を守る者であった、トロイア人の中で。(なぜ彼は救われなかったのか!)】 【2.428* (しかし)神々は、違う(値しない)と断じたのだ。ヒュパニスもデュマ―スもむなしくなる、】 【2.429 仲間に刺し貫かれて。パントゥースよ、お前を、その(アポッローの神官の生涯をかけて務めた)数えきれない最高の】 【2.430* 儀礼の敬神も、頭に巻きその神を敬する飾りも、冥界へ滑り落ちることから守ってはくれなかった。】 【2.431 極みの劫火に焼かれたトロイアの灰よ、いわば私の(この)同胞らの灰よ、】 【2.432 私は誓って言う、お前たちが証人だ。お前たちが没したとき、(襲い来る彼らの)武器からも、如何なる】 【2.433 ギリシア勢の反撃からも私は逃げ隠れしなかった。言い換えれば、よしんばユッピテルの神命が(落ち延びではなく)死だったとしても、】 【2.434 私はそれを手ずから取った。(しかし...偽装の若者らが全滅した)その場から、我々は引き離された。】 【2.435 (すなわち)私と共にイーピトゥスとペリアースは―(ここで生き残った二人の背景に触れるなら、)そのうちイーピトゥスは年齢を重ね、】 【2.436 今や思慮深く、(偽装策に)軽々に動かなかった。また(真の勇士たる)ペリアースは、(策士)ウリクセースの(計略に屈した武勇の恥辱たる心の)傷によって、(武勇で仇討すべく、偽装への)動きが遅かったのだ―】 【2.437 (我らは)間を置くことなく、(その時聞こえてきた)叫び声のするプリアムスの館へ(神意によって)呼び寄せられた。】 〈訳注等〉 *2.428:滅亡のトロイアに殉ずるべくアエネーアースが出動し、志を同じくする若者らに死の檄を飛ばす2.350以降、その若者らの万事が休する2.420までの71行の中で9行が「DSSSDD」の主韻律を持つ。この主韻律の発現確率は、『アエネーイス』第2巻の2.1-420の範囲では、34行/420行=8.1%となる。したがって、偶然だとしても不思議はないのかもしれない。しかし、この2.350-420において同主韻律を有する詩行の内容の変遷を見ると、同じ主韻律「DSSSDD」を有するルクレーティウス『事物の本性について』第3巻第56行との対話が感じられるのである。すなわち、ルクレーティウスは当該箇所で「逆境でこそその人間が良く分かる(口先だけか真にそうか)」と主張しているのであり、この主張は、祖国滅亡が秒読みに入った状況下(まさに逆境)で、「死を前提に戦いに向かおう」と檄を飛ばすアエネーアースの「virtūs(武勇)」を問うにはうってつけの命題なのである。  ただ、アエネーアースの言行一致は全12巻を通して語られるべき主題である。  ※例えば、同一主韻律を持つ、アエネーアースが決戦に臨み我が子に託す言葉12.435はその一つの答えかもしれない:Disce, pu|er, vir|tūt(em) ex| mē vē|rumque la|bōrem,|| DSSSDD|APAAAA|| 436 fortū|n(am) ex ali|īs [私から、我が子よ学び取れ、武勇を、そして真の労苦を。運・不運は他の者らからだ。]  したがって、ここでは、より小さい範囲で結論が出るべきコロエブスの言行一致が描かれていると考える。つまり、このアエネーアースの檄で武勇に火を付けられその気になった若者の代表格がコロエブスであること。そして、偶然の順境を利した初勝利に目がくらみ、偶然的順境を意図的に作り出す偽装戦略を提案する2.387はアエネーアースの檄2.350と主韻律のみならず従韻律も同一なのである。これは、この偽装戦略提案でその後のイニシアチブを取るコロエブスが、「疑似アエネーアース」となったことを意味する。ここにおいて、コロエブスが偽装提案の最期を「2.390 敵に包囲攻撃されているときに、計略か武勇かなど、誰が問題にするものか」という不敬神な言葉で締めくくるとき、「疑似アエネーアース」は、口先だけの人間であることを証明したことになる。ちなみに、言行不一致のコロエブス以下の若者らは、偽装戦略で始めは成功するものの、最後には多勢に無勢(2.414, 420)で万事休する(全員討ち死に)ことになる。 *2.430:ウェルギリウスとルクレーティウスの対話がA. 2.430とLucr. 5.1198の間にうかがわれる。 ・内容の真逆性:A.2.430「〇〇が敬神のはずだ」⇔Lucr. 5.1198「〇〇は敬神ではない」  (〇〇:[神の加護を求めて]古式ゆかしく儀礼をつくすこと) ・主韻律の真逆性: A.2.430「SDDDDD」⇔Lucr. 5.1198「DSSSDS」 ・考察 1) 両者には「内容と形式(主韻律)」の一致がある。 2) 細かくは、A. 2.430の内容は「〇〇と信じていたのに。(裏切られた、これが神の正義か!)」という激しい感情を含んでおり、5連続Dで埋め尽くし畳み掛ける主韻律はそのニュアンスを好適に表現する。一方、Lucr. 5.1198の場合、激しい感情は直前行に表しており*、本行ではむしろ高度にS的な主韻律で、敬神認識の誤りをじっくりと説き聞かせる場面に効果的である。 *Lucr. 5.1197 「DDDDDS:(自然の脅威を神々の怒りに帰す迷信が)どれほど大きな傷を、何という涙をわれらの子々孫々にもたらしたことか!」  なお、この「DDDDDS」とA. 2.430の「SDDDDD」はキアスムス関係をなし、「迷信→身の破滅」という起結関係を示唆する。実際、「木馬の神通力の迷信」が起点となって「トロイア破滅」の帰結に至る。 3) ここでウェルギリウスがルクレーティウスを本歌取りし、彼と対話する目的は、ホメーロス的伝統的敬神とそれを否定するルクレーティウス的原子論(唯物論)を『アエネーイス』のアエネーアースのあり方へ止揚し、もって人類史的新時代の精神文化とするために、原子論からの伝統的敬神への批判―上位概念としての「形式を整えても真の敬神にはならない」―を取り入れることにあるだろう。 *2.436:本行の主韻律はDDSDDSであり、2.433のSDDSDDとキアスムスをなす。このことは、意味の深堀の示唆だと考える。加えて、「ウリクセース」の名前の出現も深堀の価値を指示するものであろう。  例えば、次のような解釈も可能であろう。  事実:アエネーアースと共に生き残った他2人は、老齢でイーピトゥスと負傷者のペリアースである。イーピトゥスはgraviorであり、ペリアースはtardusである。  一般的解釈:gravior(動きが重い)もtardus(動きが遅い)も肉体的戦闘力の欠乏を意味し、よって残された3名の運命は風前の灯火である。なお、ウリクセースの名の出現には文脈上の重要性はない。  新たな解釈:graviorは(年輪を重ねて精神的に)「思慮深い」のである。  tardusも「精神的に動きが遅い」のである。ユーノーがトロイア人ゆえに心に永遠の傷を負い(1.36)、トロイア人への激しい怒りが果てし無いように、ペリアースの負傷も「心」の負傷なのである。そしてそれはウリクセースの傷と表現されるが、ウリクセースの名は「計略」の代名詞(2.44)であるがゆえに、彼の木馬の計略で祖国が滅びることがペリアースの心にユーノーのような傷を与えたのであろう。ユーノーのそれに比肩する傷となるためには、ペリアースが真の勇士であり計略を憎み武勇を誇る者であったと考えるのが妥当であろう。真の勇士にとっては、偽装計略を提案されてもそれに向かって賛同する心の動きは「tardus」となろう。  アエネーアースとこの2名が生き残ったとしたのは、ユッピテルの神意を聞き手/読み手に訴求するためである。その神意とは、たとえ亡国の苦境であっても武勇を捨て計略に頼ることは「不正」であり、その対価として、「偽装計略」に参加した若者は全滅したのに対し、この3名は生き残った。  したがって、2.436と433の主韻律のキアスムスは、内容の起結関係として、2.436「起:ギリシア勢の反撃は、逃げ出さない限り、誰がいつ死んでも不思議はないほど激しい」、2.437「結:ユッピテルの神意の下、激しい戦闘で生き残ったのは、偽装計略に参加せず武勇で戦った3名のみであった」となる。  なお2.435の主・従韻律が全巻冒頭行のDDSSDS|AAPPAAと同一であることは、アエネーアースを支える老齢の思慮深さ(アンキーセース)と真の武勇の仲間たちの同一構図として呼応するだろう。 《重要な含意》 ユッピテルの意にかなう統治者の3条件:公正・敬神・武勇  2.427・430・432の3行の当事者(リーペウス・パントゥース・アエネーアース)の生死の分かれ目は、文字化された情報をたどれば、戦闘を生き延びる力は直接的な戦闘力・武勇のみ(アエネーアースは武勇で生き残った)という原子論的合理であると解釈されるだろう。しかし神々の関与を信じる立場からは、韻律の特徴から背後に次のような詩人の意図がうかがえる。  第1巻で配下のイーリオネウスがカルターゴーの女王ディードーにアエネーアースを王として語るとき(1.544-545)、その公正(justum)・敬神(pietās)・virtūs(武勇)の3つを徳目として挙げ、それらが比類なしとする。  第2巻では、まさにその3つの徳目が、偽装工作をし順境下でギリシア勢を攻めた後に、それがあだとなって全滅したアエネーアースの仲間達の描写に現れる。それも個々に別の人物に割り振られている:公正(2.427 リーペウス)、敬神(2.430 パントゥース)、武勇(2.432 アエネーアース)。  加えて、この3行の主韻律には、下記のような同一あるいは真逆の関係がある。    公正(2.427)=武勇(2.432)=DSSSDS(高度にS的)←真逆→SDDDDD(高度にD的)=敬神(2.430)  これらの一つの解釈として次のように考える。  将来のローマの始祖としてさらに鍛えられるべしという至高神ユッピテルの視点からは、トロアイア戦争段階のアエネーアースの「敬神」は、その本質の理解・体得の点で、まだ不十分だったのである。一方、「公正」と「武勇」はある水準に達していた。加えて、ユッピテルにとっては、主に文官が担う「公正」と主に武官が担う「武勇」とを統括し正しい方向(何が正しく、いかに武勇をふるうか)に導くべき最も重要な根幹こそが「敬神」であろう。それゆえに、「敬神」の2.430は高度にD的な主韻律で強調されるのであり、「公正」と「武勇」は横並びで「敬神」と真逆の主韻律で対置されている。 以上

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Recitation (Aenēis 2.407-419) and Slides_第1巻の新海神と真逆に振舞う旧海神の様がルクレーティウスとの対話(新しい「無秩序からの秩序の創出」)に至る

《和訳と訳注》 【2.407* (神々は心静かに眺めるのみ。逆に)人間コロエブスの心には怒りが満ち、この光景を座視しなかった。】 【2.408* (計略も逆包囲の危険も考えず、確かに、武勇か計略かを迷うことなく)己が身を群がる敵勢の真ん中に投じた、死ぬ者として。】 【2.409* 我らも皆一斉に続く。(これまでの展開を念頭に、しかし敵の懐に)武器を手に密集してぶつかっていく。】 【2.410* 初めて、ここで我らは圧倒され(陰惨なる逆境が訪れ)る。(天のユーノーの「策略」がついに牙をむいたかのように)神の社の高い頂から放たれる、石や弓矢や槍の数々によって、】 【2.411* (それも)我らの同胞のそれらによってのこと。...(この戦争で)最も救いのない殺戮がおこる。】 【2.412* 武具の見た目ゆえに、つまり(頂から夜目遠目の彼らにとっては正しい、)ギリシア人の兜の前立てのもたらす(我らの狙い通りの)誤解ゆえに。】 【2.413* 続けざまに、(あたかもトロイア戦争の発端のように)乙女を(友軍に)横取りされたと呻き怒る(本物の)ギリシア勢が】 【2.414* 四方八方から群がり襲いくる。(横取られて最も)激昂する(当の)アイアクスが、】 【2.415* アトレウスの二人の息子が、そして鍛えられたドロペース族の全部隊が(次々と奔流となって)。】 【2.416* それは(陰惨な破滅をもたらし)あたかも、過ぎし(原初の)時、あるいは将来いつの日か同様に、敵意をむき出す風同士が出口から噴出し渦を巻いてぶつかり合うよう。】 【2.417* 西風も、南風も、曙の女神のそれも、喜び勇む。】 【2.418* すなわち、その女神の馬を駆る東風も。(陸では)森がきしむ。(一方、海でその騒乱に加勢するのは、大海支配の象徴たる)三叉の鉾で暴れまわる、】 【2.419* 泡だらけになって、大海を深い底からかき乱すかつての海神ネーレウス。】 〈訳注等〉 *2.407:本行の主韻律DDDSDDは、婚約者が天に見放され窮地に立つ様の2.405の真逆である。見放す天と心のたぎる人間(婚約者)との対比がある。 *2.408:本行の主韻律SDSDDDは、救いの好運を期待しつつ敵勢とともに進軍しつつ相手を包囲してその多く冥界送りにした2.396・398の真逆である。愛の狂乱ゆえに相手に逆包囲される危険も考えず敵の真ん中に身を挺し、死ぬことになるコロエブスとの対比がある。  また、「誰が敵に包囲されて計略か武勇かを迷うものか」と言い放った2.390と主韻律を共有する。彼は確かに武勇を迷わず選んだ。 *2.409:本行の主韻律DSSSDSは、逃げ出す敵と今後は順境が続かない嘆きの2.400・402と同一である。 *2.410:本行の最高度にS的な主韻律SSSSDSは、トロイア最期の夜の惨劇は口にするのもためらわれるとする2.361と同一である。本行の悲惨を予示していたかのようである。  また、本行と直前行との主韻律の違いは第1脚だけであるが、本行の従韻律AAPAAAは直前行のPPAPAAの真逆である。これは両行の間に横たわる運命の暗転と呼応する。 tēlīsは、tēlum(飛び道具)の複数・奪格だけでなくtēla(くもの巣、策略)の複数・奪格も可能。 *2.411:本行の主韻律SDDDDSは、「女神が好運の道を指し示している、その道に進もう、そこに偽装道具もある、夜陰に乗じて勝ち戦を重ねた」とする2.387・388・391・397の真逆である。女神(ユーノー)が好運を呼ぶ偽装で罠におびき寄せ、その罠がついに牙をむく状況と理解できる。 *2.412:本行の主韻律SDDSDDは、トロイア人カッサンドラが神殿から拉致される2.403・404と真逆である。内容的にも、それを阻止しようとするトロイア勢の、新たに突進してきた「ギリシア勢」への攻撃に関わる本行(ギリシア勢だとの誤認理由)は2.403・404と対峙し、韻律と呼応している。また、ギリシア勢も倒れるという2.368と主韻律を共有しており、その意味でも内容と韻律の一致がある。 *2.413:本行の主韻律DDSSDSは全巻の主題を担う冒頭行と同じであり、そのトロイア落ち延び行の発端となった「ヘレナのパリスによる略奪」を「カッサンドラのコロエブスによる横取り(救出)」に投影するものであろう。 *2.414:本行の主韻律DSSSDDは、本来的仲間のトロイア勢に襲われる2.411の真逆であり、本来的敵の真のギリシア勢に襲われる内容と呼応する。 *2.415:本行の主韻律DSDSDDは、木馬から「続々とギリシア勢が奔流となって出現する」様の2.328・329と同じであり、そのニュアンスを本行に担わせている。 *2.416:前段の陰惨な事態を「相争う風ども」の話に例えようとする後段の冒頭を担う本行は、SSSSDSの主韻律を持つ。この主韻律の担い得る陰惨のニュアンスは本行にふさわしく、前段において同一主韻律で陰惨の極みたる同士討ちを歌う2.410と、実際の事態と例え話との呼応を演出する。のみならず、1.134とも同一な主韻律および「相争う風ども」の内容で呼応する。すなわち、1.134は後にイタリアへ向かうアエネーアース艦隊を、アエオルス王に放出された風どもが襲撃し海を底からかき混ぜたために、海神ネプトゥーヌスに呼び付けられ恫喝される場面なのである。  さらには、風どもの大嵐は、ルクレーティウス『事物の本性について』5.432-448の宇宙の原初における諸原子群の渦巻く巨大な嵐に繋がる(詳細は「重要な含意」を参照)。 *2.417:本行の主韻律SDDSDSは、若者らが全員喜び勇んで次々と偽装工作に参画する様の2.394と同一であり、各風が次々と参画する様は、喜び勇むのは東風だけでなく各風が等しくそうだと示唆する。また、アエネーアース艦隊を風どもが襲う1.85とも同一の主韻律と類似の内容(各風が一体となる)で繋がる。 *2.418:本行の主韻律DSSSDSは、狂乱に駆られるコロエブスの突撃に一斉に続くアエネーアースらの2.409と同一であり、三叉の鉾の持ち主の荒れ狂いは、風どもの騒乱への同調・加勢であることを示唆する。 *2.419:本行の主韻律DSSDDSは、神々に見捨てられ敵に虐げられるカッサンドラの2.403・404、さらにはユーノーがトロイア人を風の襲撃で海にばらまけと命ずる1.70と同一であり、人間に冷淡で荒ぶる神々の様で内容も共通する。一方、SDDSDDの主韻律と、「騒乱を止めるために風どもを呼びつける」1.131および「三叉の鉾と海の支配権が帰属するのは彼ではない(私ネプトゥーヌスだ)」との内容を持つ1.138とは、韻律および内容が真逆で呼応する。この旧世代の海神ネーレウスと新世代の海神ネプトゥーヌスの対峙の示唆の意味は「重要な含意」を参照。 《重要な含意》 第2巻トロイア最期の夜の内紛〔ギリシア勢同士(一方は偽装トロイア勢)〕は、無秩序に荒れ狂う風どもと海神への比喩を通して、第1巻ネプトゥーヌスによる類似状況の、威厳と全体各所への語り掛けによる鎮静化に繋がり、ルクレーティウスとの対話(新しい「無秩序からの秩序の創出」)に至る (1)「相争う」風どもによる「騒乱(内紛)」という共通性:同一/類語および高度に同一な主・従韻律  A. 2.416:かつての風ども同士の争乱、A. 1.134:ネプトゥーヌスによる海の騒乱を起こした風どもへの尋問。Lucr. 5.442:宇宙の原初状態たる、諸原子同士が内紛のようにぶつかり合う様(同5.436では新規な(奇妙な)嵐と呼称。 (2)海の支配者の真逆の振る舞い―その1:旧海神(ネーレウス)による騒乱参画・拡大と、新海神(ネプトゥーヌス)による秩序回復に向けた騒乱犯人(風ども)の尋問。内容と主韻律の真逆性が一致  A. 2.419:旧海神が海を底からかき乱す、A. 1.131:新海神は東風と東風を呼びつける。A. 1.138:新海神は大海の支配権と恐るべき三叉の鉾の持ち主は彼(風どもの王:アエオルス)ではなく私だと言い放つ。 (3)海の支配者の真逆の振る舞い―その2:旧海神(ネーレウス)の騒乱参画・拡大と、新海神(ネプトゥーヌス)による威厳と語りかけによる騒乱の鎮静。内容と主韻律の真逆性が一致  A. 2.418:(陸では)森がきしるのみならず、(海では旧海神が)三叉の鉾で荒れ狂う。A. 1.154:そのように(人間界の騒乱が威厳者の語り掛けで鎮まるように、新海神の下で)大海の騒乱はすべからく鎮まった。Lucr. 5.435-436:(無限の過去の原初の状態では、)我らの(見慣れた)事象と類似の事象は全く見られない。しかし、(見られたのは)ある種の(現在の我々によっては見たこともない、つまり)新規な(奇妙な)嵐であり、(その全体は)巨大に生じた塊であった。 補遺:2.416-419がこのように最終ルクレーティウスとの対話までを視野に入れる意味は何か  原子の自由気ままな騒乱とは無秩序であり、その無秩序から秩序立った世界が形成されることは原子論的には自然の摂理であり必然である。  第2世代の海神ネプトゥーヌスと同様に、ユッピテルは第2世代の至高神である。そのユッピテルの神意である「これまでの平和・繁栄のトロイアの滅亡」と、アエネーアース/ローマ人による「これからの平和・繁栄の全世界の再構築」は、旧来の秩序を破壊して一旦無秩序状態を作り出し、そこから新規秩序を作り直すことと理解できる。その神意たる「アエネーアース/ローマ人による平和・繁栄の全世界」という新秩序は原子論的にも「必然」であることを示唆しようとするものであろう。  自然の摂理と至高神の神意との親和性は、A. 10.112-113 「rex Iuppiter omnibus īdem. fāta uiam inuenient.([万物の]王たるユッピテルは全てに平等だ。その神意は道を見出すだろう。)」という名高いフレーズが、例えば「水は、万物に等しく降り注ぎその海へ下る道を必ず見出す」という自然の摂理のごとくに響く様にうかがえないだろうか。 以上

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Recitation (Aenēis 2.391-406) and Slides_ルクレーティウス(Lucr. 3.31-86)との「死の恐怖」を軸とした対話か (2.396-402)

《和訳と訳注等》 〈和訳〉 【2.391 武具は、他ならぬ(討ち取った)彼らが提供してくれるさ。」コロエブスはこのように語り終えた。続けて、アンドロゲオースの、(格は劣るがアキッレースのそれのように)馬の飾り毛が長く垂れる】 【2.392兜や、(将の気位で同格の敵へ生まれ変わるに*)ふさわしい標識のある丸盾を】 【2.393 身に着け、そうして脇にギリシアの剣を差す。 (*パトロクロスから奪ったアキッレースの武具を着けんとするヘクトルにつぶやいたユッピテルの言葉がまた聞こえるよう)】 【2.394 (*コロエブスにうなずき)自らこれを、リーペウスも。これをデュマ―スも、そして(残る)若者らの全ても、】 【2.395 喜び勇んで行う。各人、新しい即ち、敵の、しかも温みの残る武具で身を包む。 (*倒れていたギリシア人部隊が(亡霊のように)再び立ち上がった。見るにつけ、私の周囲は恐ろしくも、ギリシア兵が埋め尽くしていた。)】 【2.396* (敵が都に満ちる中、)決して我らへの好意ではない、トロイア憎しの神意があふれるギリシア勢(に接近しそれを取り巻くよう)に合流し、(機を見て襲うべく)共に進軍する。】 【2.397我らは(女神の道をたどったのだろうか)闇夜の諸処で敵とまみえ、幾度も戦いを】 【2.398 交える。(出会った)ギリシア勢の内の多くを我らは(人の恐れる)冥界に送り込む。 (*彼らは内紛が起きたと思っただろう)】 【2.399* (特筆すべき)ある者らは、(包囲を免れ)船へと算を乱して逃げて行き、あの岸辺へと我先に、】 【2.400* (つまり海の彼方の)安堵できる岸辺へ(死の恐怖からできるだけ離れようと船を漕いで)向かう。またある者らは、不名誉にも(逃れられない状況に絶望し、生を厭うほど)死の恐怖に打ちのめされて、(あの)巨大な】 【2.401 木馬にもう一度登り、(彼らはもちろん我らも)良く知る(光のない暗黒の)腹の中に(それが自殺に等しいことを弁えもせず)自らを隠し、言い換えれば(*そこを墓場に)自らを「埋葬」する。】 【2.402* ああ(ここまでは)!(やはり)あろうはずもなかった。誰であれ、そのつもりのない神々に(やるべきことをやらず身勝手な)満願を託した者が、至高のユッピテルのうなずきを得るなどということは!】 【2.403 見よ、(*祈りのために解いていた)髪を振り乱して、プリアムスの未婚の娘が引き出されて来た。】 【2.404 ミネルワ神殿の聖域から、カッサンドラが。】 【2.405 彼女は天(のミネルワ)へ、熱く訴求する視線を、(しかし今は*)むなしく、差し向けていた。】 【2.406 視線をだ。それは、柔な両手を縄が封じていたため。 (*ディードーの運命のよう。彼女には既にウェヌスのアモルが取り付いており、やがてユーノーの仕掛ける「アエネーアースとの結婚のきずな」が彼女を縛り、遂には自刃し眼だけで天の女神を探すことになる。)】 〈訳注等〉 *2.392, 395:本行の主韻律DDDSDDは2.395のDDSDDDとキアスムスをなし、その内容に起結関係が示唆される。2.392起:コロエブスが敵将のアンドロゲオースに生まれ変わる。2.395結:他の若者ら全員がその配下の敵兵に生まれ変わり、あたかも、そこに殺されたばかりの敵軍が一式(亡霊軍団となって)、一人変装していないアエネーアースを取り巻くように、恐ろしくも再び立ち現れたようだ。なお、2.395の主韻律が2.382と同一であることから、2.382の「haud secus, vīsū, tremefactus」を同一上位概念として上記の2.395結の内容に反映させている。 *2.393:ユッピテルは、ヘクトルがアキッレースの恐ろしい様でゆれる馬毛の兜をはじめ諸武具を付けたときに次のようにつぶやいた:「本来お前の格にその神授の武具は不釣り合いである。さしあたっては強い力を与えるが、それはお前が無事に戦場から帰れないことへの補償である(Il. 17.198-208)」 *2.394:本行の主韻律SDDSDSは2.389のそれと同じ。2.389はギリシア勢の武具との交換の提案である。 *2.396:本行のDSDSDS|APPPAAの主・従韻律は、2.377のそれらと同一であり、2.377でのギリシア勢がトロイア勢の中にはまり込む状況を、意図的に再現しようという行動が含意されている。さらに、本行の主韻律は2.390の真逆でもあり、主人公らは全体的には敵の制圧下にあることを自覚しつつ前記の動きをしているという含意も合わせ持つ。 *2.397:本行のDSSSDDの主韻律は、女神の道に従おうと提案した2.387-388のそれと同一。 *2.398, 400, 401:下記の《重要な含意》を参照。 *2.399と2.406:両行の主韻律はDDSSDSであり、全巻冒頭行1.1のそれと同一である。  まず、2.399における「aliī」は、2.400の第2の事例で用いられる「pars」と置換可能であろう(むしろその方が、pars~pars~の自然な構文か)。しかし「pars」で置換した場合の主韻律はDSSSDSへ変化してしまうがゆえに、詩人はDDSSDSの主韻律を得るために、あえて「aliī」を用いたと推定する。  2.399の主韻律がDDSSDSであることは、『アエネーイス』の主題を担う1.1と同一であることによって、主人公アエネーアースの前半最大の山場の一つを予示しようとするものであろう。すなわち、アエネーアースは、今は眼前で傾聴しているディードーとの絡みにおいて、やがて2.399同様に、彼女の下から「一目散に海路夜逃げする(4.581)」のである。  2.406も、眼前のディードーは、そのアエネーアースの夜逃げの結果(将来のローマとカルターゴーの戦争を遺言して)自刃するに至り、瀕死の状態ゆえに、手を天上のユーノーに差し伸べることもかなわず「視線だけを向ける(4.691)」ことになる。  なお5.23-24にて、カルターゴーから脱出しイタリアへ向かう途上で嵐に遭遇したとき、避難しようと決めたシキリアの異父兄弟エリュクスの港を、アエネーアースは「lītra...fīda(信頼できる岸辺)」と表現している。 *2.401:本行のSDSSDSと前後行のDSSSDSが成す「DSSSDS-SDSSDS-DSSSDS」のサンドイッチ構造は、計略の成功と神々を語る。これは、偶然の勘違いがもたらす成功と女神を語る2.383-385の主韻律のサンドイッチ構造と同一である。ここにおいて、2.384のSDSSDSでは襲われたギリシア勢が全滅しているため、本行のSDSSDSも同様に、木馬の腹部(閉鎖空間)に逃げ込んだギリシア勢も木馬ごと死に追いやられた(自死した)と推定される。つまり、2.398 multōs Danaum dēmittimus Orcōの内訳が2.399-401で語られているという解釈である。 *2.402-1:『農耕詩』1.224に同一/類似の語詞とモチーフを持った語りがある。「invītae properēs annī spem crēdere terrae.|| 農耕にはしかるべき時期があり、待ちきれずに種まきしても大地は応えてくれない」 *2.402-2:ここで、上位概念で考えれば、「誰」をユーノーに、「神々」をユッピテルに置き換えても成立する。足下では、アエネーアースの歓待にまつわる、ディードーを用いたユーノーの策略の行く末を暗示する。 *2.403:7.403に「髪をとめるリボンを解け、我が(バックス神への)秘儀に加われ」というアマータの台詞がある。1.480のパラス神に嘆願するトロイアの女たちのcrīnibus passīsも同様と解釈する。 *2.405:1.42では後にミネルワが、カッサンドラへのアイアクスの不敬神を罰し、DDDSDDの主韻律で2.405の韻律と内容に対峙する。 《重要な含意》 ―ルクレーティウスとの対話か:「A. 2.396-402」と「Lucr. 3.31-86」―  敵のギリシア勢へ変装して接近し油断をつく襲撃作戦が成功する段において、なぜギリシア勢が「木馬」へ逃避するエピソードを語る必要があるのだろう?  アエネーアースの視点から語られるエピソードを、襲われたギリシア勢の視点から見直せば、「仲間」に襲撃されたのであって、「内紛」が起こったと理解したであろう。例えば勝利が見えた段階で、戦利品の横取りにきた、あるいは、対立派閥がドサクサに襲ってきた等の理解である。  ここで「内紛」のキーワードを「ローマ内戦」に置き換えれば、まさにルクレーティウスの時代背景であり、『事物の本性について (Lucr.)』を著した目的*に合致する。  *目的:戦争の根源には人間の強欲があり、強欲の根源には「死への恐怖」がある。ゆえに個々の人間が、原子論的合理(真の知恵)で、世界の成り立ちとともに「死の恐怖」の迷信たるを得心すれば、自ずと強欲と戦争が滅却される。 そのLucr. 3.31-86で、ルクレーティウスは「死の恐怖」の迷信が強欲を通じていかに人間の生を暗黒にするか、いかに悪行を強いるかを説き、そうであればこそ、この恐怖を自然の姿と摂理で払拭するのだと訴えている。  さて「木馬」のエピソードの目的は、この文脈からは、Lucr. 3.79-82における「死の恐怖は人間をここまで*追い込む」という極端な事例への関連付けであり、ひいてはルクレーティウスの原子論的価値観との対話だと考え得る。  *ここまで:死の恐怖に脅かされ、悲嘆するあまりに、人生に、言い換えれば「光を見ること」に嫌気がさし、自らを死なしめる(暗黒(冥界)へ送り込む)。つまり、「死」を恐れ遠く離れようともがいた挙句に自ら「死」と一体化するという矛盾であり愚行である。  すなわち、襲われたギリシア勢は、包囲され逃れられない状況下で、死の恐怖から、人生にそして「光を見ること」に嫌気がさし、光の入らない暗黒の「木馬」の腹腔内に自らを隠した。言い換えれば自らを埋葬した(A. 2.401 condōの「隠す」には「埋葬する」の意もある)のである。自ら「棺桶」に籠った彼らをアエネーアースらがどのように処置したかは詳細を言うまでもないということであろう。  なお、韻律的には、ルクレーティウスが挙げる自殺に至る事例の第1行目 Lucr. 3.79「et sae|p(e) usqu(e) ade|ō, mor|tis for|mīdine,| vītae || SDSSDS」の主韻律がA. 2.401と同一である。  このような視点からは、A. 2.399の船への逃避のエピソードも、Lucr. 3.69の「死の恐怖に駆られた人間は遠くへ逃げようとする、遠くに離れていようとする」という叙述と呼応するように思える。  ルクレーティウスの原子論的価値観との対話と理解すれば、A. 2.396「haud nūimine nostrō」も、A. 2.402「nihil inuītīs fās quemquam fīdere dīvīs!」も、原子論的には「神々は世界に関与しない」のであるから、当然のことなのである。むしろ原子論は、「恐れるべきは不名誉であり死ではない」と高言する者らが、「まさにその不名誉な罪を犯して、祖国から、人々の視界から遠くへ追放され、あらゆる辛苦をなめても、それでも生きている」という言行不一致を指摘する(Lucr. 3.41-50)。そして、「逆境が仮面を剥ぎ、本音を引き出す」とする(Lucr.3 55-58)。  この原子論の「挑戦」に対して、まさに同様の「高言とあらゆる逆境」のアエネーアースの物語たる『アエネーイス』がある。全巻にて、ウェルギリウスとルクレーティウスは、アエネーアースの考え・言動の軌跡を通した対話をするのであろう。 以上

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Recitation (Aenēis 2.376-390) and Slides_蛇の例え話に『農耕詩』第3巻の蛇の段からの含意_脱皮・新生の蛇はアエネーアースとその後の新生ローマ人の暗喩

《和訳と訳注》 【2.376 (こう)言い終えて間もなく―それというのも(話しているうちから)、絆の感じられる反応が十分返ってこなかったからだが―】 【2.377 彼は、(敵を掌握したはずが、逆に)敵の真ん中に飛び込んだことを悟った。】 【2.378 (その瞬間、言葉を失い)呆然としつつも、引き返すべく(「しまった!コンチクショウ!」)呪詛の言葉とともに、(冥界へ押し込んでいた)足を引き戻した。】 【2.379* それはちょうどこのようなこと。(夏空の下、のんきに心地よい眠りを求めて草原に分け入るうちに)刺々しい茨の藪(に迷い込ん)で、[または気が早く茨にアッシュリアの香料を期待したが、]思いもかけず、(日照りに棲みかを追われ狂暴になり、しかも脱皮で蘇った、一匹の猛毒の水)蛇を、】 【2.380 地面に踏み付けた者が、足を上げそり返り、震え上がって、とっさに(こけつまろびつ*)逃げおおした。】 【2.381 そのとき、(激しい)怒りを募らせた蛇は、天空色の長首を、(その分*)膨らませ(まさに飛び掛からんとし)て、いたのだったが。】 【2.382 これと寸分違わぬ展開にて(何とか生き延びようと)、アンドロゲオースは(我らの)光景に震え上がって逃げ去りつつあった。】 【2.383 (その一匹に従う集団の)我らは(そうはさせじと)突進し、武器を手に隙間なく包囲する。】 【2.384 (一方の彼らは)土地勘がなく、さらに恐怖で金縛りとなり(その場を動けない)、我らは手当たり次第に彼らを、】 【2.385 討ち倒す。運/不運の女神は、最初(は)、我らの骨折りに好意を示す。】 【2.386 しかるに、ここにおいて、(早々の)成功で有頂天になり、(その分*)勇気の湧いたコロエブスは(つまり逆境では挫けるはずと思われた勇気に乗っかって)、】 【2.387 「おー、仲間達よ、この方角へ」と言う、「つまり、(ラーオコオーンの懲罰から始めた木馬の女神とは逆に、)まずは(この恩寵から始めてくれた)運/不運の女神が生き残りの道を】 【2.388 指し示している方へ、言い換えれば、好運の女神として自ら(の姿)を現している方へ向かおうではないか。】 【2.389 つまり、(我らと倒した者らの)盾を交換し、ギリシア軍の印の数々を我ら(の身)に】 【2.390* 着けるのだ。計略か武勇か?(そんな分かり切ったこと!我らのように)敵に囲まれているときに、誰がそんなことを(気にし)尋ねるかね?(しかも神々自身がこの木馬の計略に加担しているとき、なおさら気にする者はいないだろう!)】 〈訳注等〉 *2.379-381:この3行(2.379-381)の背景を与えるのが『農耕詩』3.414-439の蛇と家畜・牧夫との緊張関係である。類似の語句・韻律で両箇所の結び付きを明示する詩行対が上記A. 2.381と『農耕詩』のG. 3.421である。ただし、ここでは牧夫と蛇の行動が対照的でありひねりがきいている。首を膨らませた蛇において、牧夫が草原のそれから逃げるのが『アエネーイス』であり、家畜小屋の蛇退治に来た牧夫の攻撃からそれが逃げるのが『農耕詩』である。一方、G. 3.435-439では、ピクニック気分の牧夫が草原のある種の危険な蛇(脱皮を終え蘇った水蛇)を避けるべきだと語っている。文意的にはまさにこのモチーフがA.2.379-381の背景にあり、両箇所において、牧夫は最終的に蛇の難を逃れて生き延びていることが重要である。なお、蛇の脱皮は永遠の再生の象徴であり、トロイア再生の任を託された後のアエネーアースが、アンドロゲオースに危険な存在として、脱皮した蛇に暗喩されていると思われる。  蛇を踏んだ牧夫に例えられたアンドロゲオースは、しかし仲間もろとも殺害される。その生死の真逆性が、主韻律でのA. 2.380「DSDDDD」とA. 2.384「SDSSDS」の真逆性と一致。 *2.379:黄金時代を願望・予言する詩行の中に「刺々しい茨に香料がなる(『牧歌:E.』3.89)」、「野イチゴの草原に蛇が潜んでいるから逃げよ(E.3.92-93)」、「黄金時代がやってくる、そのとき蛇は死に絶え、人目を欺く毒草も消え、あちこちにアッシュリアの香木が生えてこよう(E. 4.24-25)」との記述がある。アンドロゲオースがもはやロイア滅亡に等しく黄金は取り放題だと早合点したことと、やがてアエネーアースがアウグストゥスによる黄金時代の基を開くがそれはまだまだ先であることとをかけた可能性がある。 *2.380:韻律後半のDDD|AAAとtre-/re-/reの3語の頭韻のテンポの良さから「こけつまろびつ」を逃げる様として挿入。 *2.381:この行の主韻律はSSSDDDであり均衡を含意。ここでは、「取り組みの上首尾」と「勇気」。 *2.386:この行の主韻律もSSSDDD。ここでの均衡は、「怒り」と「(長首の)膨れ」。なお2.381と2.386に通底する均衡として次が考え得る:至高神ユッピテルが見ている「行動」と「原因」の均衡。 *2.390-1:9.549-555のトゥルヌスの兵数千に包囲されるヘレーノルが敵陣の最も分厚いところへ突進して討ち死にするエピソードと繋がるだろう。(9.555 「inruit et quā tēla videt densissima tendit.」の韻律DSDSDD|AAAPAAは2.390のSDSDDD|PPAPAAと対照性が高い。9.555が真逆でないのは、最初に2.390と2.377の真逆性を確立した後で、内容の細部の違いを反映させた可能性がある。9.555は自らの城塞を包囲されたトロイア人の一人が城壁外で敵に包囲されるのに対し、2.377はトロイア人の城塞全域に侵入したギリシア人の一人が城塞内でトロイア人に包囲される。) 《重要な含意》 (1)2.390:計略か武勇かを気にし、ユッピテルに尋ねる者がいた。ユーノーの計略で生き延びたトゥルヌスである。すなわち、ユーノーの計らい(計略)にだまされて無事に敗色濃い戦場から離脱したトゥルヌスは、その神々の計らい(計略)による無事に感謝するどころかユッピテルに抗議する。彼の頭の中には武勇しかないためである。それゆえに、トゥルヌスも2.390のコロエブスと同様に「計略か武勇か」とは問わないが、別の観点から問うのである(10.667)。ユッピテルに対して、なぜ(計略による脱出という)不名誉で罰するのかと(10.668-669)。  このようなトゥルヌスとコロエブスの違いが、主韻律において、2.390「SDSDDD」と10.667「DSDSDD」の第1脚から第4脚へかけて、D/S配置が逆となっていることの理由であろう。なお、第6脚も逆ではないのは、先に2.390と同一エピソードの中で強い真逆性を発揮している2.377と同一韻律になってしまうことを避けたのであろう。2.377と10.667との関係はあくまでも2.390の異なる2つの視点の、それぞれへの反対物としてなのである。 (2)「アエネーアースの檄」と「コロエブスの提案」が同一の主・従韻律を持つ意味  緒戦勝利後のコロエブスの提案(2.387-388 [DSSSDD|APAPAA]-[DSSSDD|APPPAA]:緒戦で好運を授けてくれた女神の道に従おう)は、出撃前のアエネーアースの檄(2.350 [DSSSDD|APAAA], 2.354[DSSSDD|APPPAA])と同一の語詞(fortūna, salūtis)を含み、内容的に両者の連関は明らかである。韻律的にも、これら4行の主韻律は全て同一であるのみならず従韻律においても、「2.350と2.387」および「2.354と2.388」の「アエネーアースの檄とコロエブスの提案」の対は夫々に同一であって、内容の同一性を強く示唆している。すなわち、直後の2.389-390でコロエブスが「討ち取ったギリシア兵の武具での変装」を言い出すまでは、コロエブスの提案はアエネーアースの思いと全く同一に響いたのである。  檄を飛ばすアエネーアースの(ユーノーが仕掛け、「生存」に関しては恐らくユッピテルも頷いている)思いは「①我らは必敗の戦いをする運命にある(2.354 victīs)、②それでも何らかの好運はある(2.350 quae sit fortūna vidētis)、➂その好運は必敗の戦いの果てに生存をもたらし得るが、そこに至るのは生存を決して望まない(戦いを死ぬまで続ける)ことが唯一の道だ(2.354 ūna salūs victīs nullam spērāre salūtem.)。さあ、(正々堂々)敵の満々中に突撃して皆で(私とともに華々しく)討ち死にしよう(2.353 moriāmur et in mediā arma ruāmus.)」というものであろう。 しかし、死を覚悟の戦闘に一度勝ち残った後のコロエブスには、「必敗の正々堂々の戦いの果ての死」が「美しい死」ではなく「無駄な死」に思えた(人間として当然の心理)。そこで、それを回避するために「好運がもたらす必敗の戦いの果ての生存」を強く希求する、つまり幸運の女神にそのことを期待するようになったのであろう。その様な者にとって、緒戦勝利につながった敵の友軍との勘違いは、まさに「幸運の女神の示唆」に思え、心に湧いた「変装」の計略(アエネーアースの正々堂々に反する)に飛びついたとしても不思議はない。 (3)3行から成るペリオドスの特徴的韻律構造(2.376-378,2.383-385):起句行と結句行が同一主韻律で統一的雰囲気。中間行は他のペリオドスの行と真逆の主韻律と内容で相互補完   ペリオドスの起句と結句の行の主韻律が同一であることは、2行から成るペリオドスの2.378-388と同様の事象であり、ペリオドス全体を一つの雰囲気で統一し、話の内容を効果的に伝える狙いを持つと考える。   まず、2.376-378では「能天気な敵将の気付き」を、「DSDSDD」の、DとSの繰り返しの主韻律で心を揺さぶりつつ「どうなるどうなる」という緊迫感を醸す。次に、2.383-385では「対する我らの反応」を、「DSSSDS」の、最初のDで素早く踏み込みつつその後のある種沈鬱な状況(2.383:皆殺しの段取り、2.385:勝利への影)をSの最大限の使用で表現する。ここで、詩人が敵の包囲殲滅の内容をいかにも活劇的なD多用で表現していないことには十分着目する価値がある。なお、2.387-388は「勝利という罠の甘い匂い」を最初のDで素早く踏み込みつつその後のある種不穏で一方誘惑的な雰囲気をSSS+DDで出している。  一方、中間行の特異性は、3行から成るペリオドス特有のことであり、当該ペリオドスと他のペリオドス行とを真逆の主韻律と内容を有し相互補完している。  すなわち、2.377と2.390は、トロイア最期の絶望的攻防の一つのエピソードを構成し、「in」および「hostis」を共通の語としながら、真逆の主韻律と真逆の内容を持って対峙している。「敵を包囲し攻める」という概念を共有しつつも、顕著な対照性としてトロイア勢とギリシア勢の攻守の主体が逆転している。  2.384と2.380の主韻律の真逆性は、2.384の「captōs(捕まった)」と2.380の「refūgit(逃げた)」の内容の真逆性を補っている。すなわち、2.384では捕まって「殺された(2.385 sternimus)」ことが次行で明示されているがゆえに、それとは逆に、2.380では、逃げてどうなったのかが他行でも明示されていないものの、「逃げ延びて無事」であると理解される。そうであればこそ、敵将の様が2.382で「haud secus」と表現されるときには、敵将も「逃げ延びて無事」であろうとしたことまでを意味することになる。 以上

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